私の干支は卯である。(その2)

 兎干支である私の人生スタートは、東京都にありながらも、その頃は客船でしか行き来のできなかった大島で生まれた。記憶は全くないが、3歳には東京都中野区に移り、初めて見る電車にいたく感激したのだろう、家からいなくなったと思うと、踏切近くの交番でお巡りさんの膝の上に乗っていたと母親が言っていた。その後の大半は、まだまだ長閑だった練馬区で過ごしてきた。

 社会に貢献できるまでの期間と 社会で貢献したかどうかわからない期間と 明確に社会に貢献していない時が、そこそこ同じ長さになってきている。

 社会に貢献できる(人間を作るのが国の考える教育)間の小学生から中学生2年までは、近くの「お絵かき教室」に通っていた。高校では蹴球+漫研に所属して、ガロとかCOMの発刊日には 当然のごとく部室で、雑誌内で生きている登場人物の一部になろうと見開きのページに頭から突っ込んでいた。

 もの心着いた時から絵のようなものに関心があったのは確かだが、その流れで「美術」という社会貢献はあまり期待もされていない分野に進もうと思ったわけではない。漫研に入ったところで、漫画を描いたことはほぼなく、第一に他の漫研の人は上手かった。

 もっとも、漫研部で覚えているのはたった二人しかいない。もしかしたら、私を入れて3人しか漫研部員はいなかったのかもしれないと思うぐらいまったく誰の顔も浮かんでこない。二人のうちの一人は同級の全国模試の国語で一桁の順位をとったことのあるという噂のA君。彼は、PPM(parts per millionではなく、Peter, Paul and Mary)のコピーバンドを組み文化祭の主役でもあったが、卒業前にはいつの間にか学校から姿を消してしまった。新宿の参宮橋に3畳一間のアパートに住んでいて、漫画やフォークそのものの時代だった。数年後、A君とはまた出会うのだが、その頃は福生の米軍ハウスに住んでいた。そして一年後輩のSさん。彼女はその頃すでにディズニーランドに行ったことのあるお嬢様?だった。その頃は世界中にディズニーランドは一つしかないから、まあそう(お嬢様)なのだろう。当然彼女はCOM派であった。この3人は、5年間ほどは、色濃くつるんでいた時期があった。

 私は、たぶん絵は好きだったのだが、中学校の頃お絵かき教室で油彩画をやり始めてから、興味を失ってきた。それでも、1年間のブランクの間に、進路に悩んでいたよう振りをして佐渡島へ一人でぷらりと出かけた後八王子城址のファッションホテルのような学校へもぐりこんだ。

 その八王子城址でも「具象の絵」は、数点描いただけで、社会人になったとたん描いたことのない「絵」から少し距離を置いた。脱兎のごとく、

その時から、私に兎が住み着いた。

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